宮崎県で口蹄(こうてい)疫が発生してから、6月20日で2カ月を迎えます。宮崎県では宮崎市や都城市などにも感染が拡大、終息の見通しが立っていない現状です。
 十勝管内でも宮崎の状況を受け、JAや各農家、自治体で万一の事態に備えた態勢づくりが進められています。防疫のため、多くのイベントで中止・延期の措置が取られてきましたが、ここに来て過剰反応を避け、粛々と開催しようという 対応に変化 も出てきました。
 肉牛市場は九州や関東などから買い付けに来る「新顔」が見られるものの、東北地方のように子牛価格は急騰しておらず、関係者も冷静に推移を見守っています。
 イベント中止は当初、家畜品評会のみだったのですが、5月下旬以降、牛関連以外の21の催しが中止となりました。過去の実績などから推計すると、延べ30万人の移動が取り止めとなったことになります。姉妹都市との交流取りやめ、農家民宿の受け入れ延期なども起きています。
 10年前に口蹄疫を経験した本別町の高橋正夫町長は、「必要以上に中止する事態が続けば逆に自ら風評被害を招く」とし、本別町やJA本別町などは町内市街地で開くイベントに関し中止しない方向で合意しました。
 なお、本別町では、8月に、毎年恒例の「ひまわり愛好会」が主催する「本別ひまわり3000坪迷路」が行われる予定で、影響が懸念されます。
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参考写真:ロン西と愛馬ウラヌス
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』


 米国ロサンゼルス五輪(1932年)の馬術グランプリ障害飛越競技で金メダルを獲得した バロン西(西竹一)が本別町西仙美里(にしせんびり)にあった旧陸軍省軍馬補充部十勝支部に勤務中、住まいとして利用した旧官舎が、建物の著しい老朽化を理由に近く取り壊されることになりました。
 本別でバロン西とのかかわりを伝える“実物資料”の1つが、70年余りの歳月を経て姿を消えていきます。
 旧官舎は、37年築の木造平屋79平方メートル。バロン西が同支部に勤務した約2年間、住まいに利用した。戦後の払い下げで民家として利用された歴史もあるが、本別では、ロス五輪の英雄で日本の戦争史に名を残すバロン西に縁の“実物資料”に位置付けられてきました。
 ただ、長く空き家となっていた旧官舎は近年、建物全体が著しく老朽化。個人で建物と敷地を維持管理してきた足寄町内の所有者が5月下旬、本別町教育委員に「これ以上、個人の管理は難しい。町教委で活用する考えがなければ取り壊したい」と伝え、両者で今後の取り扱いを協議してきました。
 所有者からの相談を受け、過去に文化財保護指定を検討した教育委員会では今回、改めて取得も含めて検討。しかし、当時、文化財保護指定を見送った経緯があり、「取得して維持管理していくのは財政的にも難しい」(社会教育課)と判断。文化財審査委員会や関係者の了解を得て、所有者の意向に沿う形で取り壊しを了承しました。

《参考:西竹一》
b0171771_20191952.jpg 西 竹一(にし たけいち、1902年7月12日~1945年3月22日)は、大日本帝国陸軍の軍人。爵位を持ち、「バロン西」とも呼ばれた男爵。
 ロサンゼルスオリンピック馬術競技の金メダリスト。戦車第26連隊長を務め、硫黄島の戦いで戦死した。最終階級は陸軍大佐。勲三等旭日中綬章。
(中略)
 西は死後昇進により陸軍大佐となっている。西の死により長男の西泰徳(現・硫黄島協会副会長)が男爵を襲爵し、昭和生まれで唯一の授爵者となった。なおその西の後を追うかの如く、1週間後にウラヌスも死亡している。西が死ぬまで離さなかったウラヌスの鬣(たてがみ)が、1990年、アメリカにおいて発見され、現在では軍馬鎮魂碑のある北海道中川郡本別町の歴史民俗資料館に収められている。
《写真:現在も使用中の旧官舎・バロン西の住居はこの隣の棟》
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A5%BF%E7%AB%B9%E4%B8%80

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 6月10日(木)、JA本別町の第38回通常総会が本別町農協会館で開かれました。 2009年度の農畜産物取扱高は、天候不順による収量や品質の低下が響き、前年比6.7%減の96億4,866万円にとどまったことが報告されました。
 2009年度決算で、農産物は取扱額が26億2900万円。固定払い12億4758万円と成績払い2億6108万円を加算した総額は同18%減の41億3755万円に。農繁期の低温や長雨が影響し、小麦や大豆、ビートなど、小豆を除く全作物で収量・品質が低下したものの、共済制度などを活用し、取扱額の減少を最小限に抑えました。
 一方、畜産は乳価値上げや乳牛販売が安定したことで、取扱額は同4・1%増の55億1,100万円となりました。
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 帯広緑陽高校放送局は、「北海道映像コンテスト2010」の学生部門で最優秀賞と3位に当たる奨励賞を受賞しました。初参加した昨年の優秀賞に続き、今回はダブル受賞に輝きました。
 コンテストは、道内の映像制作会社でつくる北海道映像関連事業社協会の主催で、プロや学生など6部門に分かれ、学生部門は最優秀賞、優秀賞、奨励賞の上位3賞に同校の2作品が選ばれました。
 最優秀賞は、高校生の前に神様が現れコミカルな交流を展開する創作ドラマ「Oh my god」。今春卒業した上級生や現局長ら8人が「学生らしい自由な発想で撮ろう」と制作しました。2008年12月からの半年間にビデオテープを27時間回し、7分56秒の番組にしました。
 奨励賞を受けたのは、十勝の高齢者から沖縄戦の体験などを聞き取ったドキュメント「終わらぬ戦争 尽きぬ想(おも)い」。2年生の副局長ら4人が、上士幌町在住で旧日本兵だった満山凱丈(よしたけ)さんに2回インタビューし、7分間の作品にまとめました。
 なお、最優秀作は北海道代表として「全映協グランプリ2010」に出品されます。
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 おびひろ動物園(帯広市緑ケ丘2)にこのほど、アカカンガルーとエゾシカの赤ちゃんが誕生しました。2頭とも母親に育てられながら順調に育っています。
 アカカンガルーは6月3日(木)、エゾシカは6日(月)に出生を確認しました。現在の所、どちらも性別は不明です。
 アカカンガルーの赤ちゃんは母親のおなかのポケットから時折顔をのぞかせている様子が見られます。2カ月ほどはポケットを出入りし、その後は自由に走り回るようになるということです。
 エゾシカの赤ちゃんは体高60~70cm。人目につかない安全なくぼ地で母親に育てられており、運がよければ授乳の場面も見られます。1カ月もしないうちに母親の後ろをついて歩く姿が見られるようになります。
 アカカンガルーの誕生は昨年3月以来、エゾシカは同6月以来。赤ちゃんの誕生により、同動物園のアカカンガルーは19頭、エゾシカは8頭となっりました。
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 6月14日(月)、道内有数のブロッコリー生産量を誇るJA木野で、今年産の選果作業が始まりました。JA木野の選果場(音更町木野大通西6)には収穫されたばかりのブロッコリーが山積みされ、従業員が余分な茎や葉を手際よく取り除いています。
 今年は音更、士幌両町の生産者102戸が165ヘクタールで作付け。今月初旬の出荷予定分が4、5月の低温で1週間ほど生育が遅れ、5月中旬の出荷分と重なり、選果作業は序盤からフル稼働しています。
 15日も午前8時すぎから選果が始まり、ブッロコリーを積んだ生産者の軽トラックが次々と到着。約40人の従業員が作業に追われていました。整えられたブロッコリーは、鮮度を保つため、発泡スチロールに入れて氷詰めしています。

《参考:ブロッコリー (Broccoli)》 b0171771_19362660.jpg
 ブロッコリー(英語:Broccoli、学名:Brassica oleracea var. italica)は、アブラナ科の緑黄色野菜。キャベツの変種。和名はミドリハナヤサイ(緑花椰菜)、メハナヤサイ(芽花椰菜)。(中略)
 緑色の花蕾と茎を食用とする。ビタミンB、ビタミンC、カロチンや鉄分を豊富に含む。日本ではゆでてマヨネーズなどの調味料をつけて食べることが多いが、欧米ではサラダなどで生食されることも少なくない。スープやシチューの具、炒め物、天ぷらにすることもある。
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%96%E3%83%AD%E3%83%83%E3%82%B3%E3%83%AA%E3%83%BC
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 6月13日(日)、とかち帯広空港と市内を結ぶ「道道新帯広空港線」(帯広市大正町)で地元ボランティアがサルビア約7000株を移植しました。約4km区間にわたり「花のじゅうたん」が連なり、観光客らの目を引いています。赤色で統一された花は秋まで沿道を彩ることになります。
 大正地区花と緑の実行委員会の主催で、4年目の取り組み。地域住民、道・市職員ら約80人のほか、米沢則寿市長も参加しておこなわれました。道道幸福インター線交点~道道豊頃糠内芽室線交点間の歩道に並ぶ花壇160カ所に苗を移植。炎天下の作業となりました。3割程度がすでに開花しており、数日後には咲きそろいそう。
 取り組みは全道の「花のじゅうたんプロジェクト」と連動して行われます。
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 6月13日(日)、本別町体育協会主催の「北海道日本ハムファイターズフィールドクラブ・ 野球教室 」が、利別川河川敷の弥生球場で開かれます。
 この「野球教室」は、野球人口の底辺を拡大しようと2007年から開催され、今回は本別町体育協会の創立50周年記念事業として設定し、本別教育委員会委と十勝毎日新聞社本別支局などが共催、本別野球連盟が主管します。
 当日は北海道日本ハムファイターズ少年野球指導者の白井康勝さんと牧谷宇佐美さんが来町し、小・中学校の少年団員や野球部員に技術指導する予定です。b0171771_11141073.jpg

《参考:北海道日本ハムファイターズフィールドクラブ》
http://www.fighters.co.jp/company/effort/fieldclub/

《参考:白井 康勝》
 白井 康勝(しらい やすかつ、1969年3月4日~ )は、愛知県新城市出身の元プロ野球選手(投手)。
 豊川高校卒業後日本ハム球団の練習生となり、1988年、ドラフト外で入団。1993年にはスライダー、カーブを武器に、10勝を上げ主に西武キラーとして鳴らし、オールスターゲームにも監督推薦で出場した。
 その後、1997年に広島東洋カープ、1998年にヤクルトスワローズへそれぞれ1年在籍したものの成績が振るわず、1998年シーズン終了後に現役を引退した。現在は日本ハム球団職員として、少年野球を対象とした野球教室の講師を主に担当している。
 プロ野球選手で阪急などに在籍した白井孝幸は兄にあたる。また、ヤクルトなどに在籍した内藤尚行(ギャオス内藤)は高校の同級生である。
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%99%BD%E4%BA%95%E5%BA%B7%E5%8B%9D

《参考:牧谷宇佐美》
 牧谷 宇佐美(まきたに うさみ、男性、1980年5月1日~ )は、旭川市・旭川実業高等学校出身の東京ヤクルトスワローズに所属した元プロ野球選手(外野手)。
 1998年度ドラフト2位でヤクルトスワローズに指名され、入団する。ルーキーイヤーの1999年、投手として登録され、ファーム2年間で計11試合に登板するも、通算1勝2敗防御率14.03と結果を残すことが出来ず、翌2000年も一軍登板も果たせなかった。
 2001年にプロ入り前から評価の高かった身体能力を見込まれ、二軍監督の小川淳司と話し合った末に、投手から野手に転向する。転向直後は確実性に苦しみ、2割前後の打率で推移することも多かったが、2004年以降はファームで打率2割8分前後の成績は安定して残すようになった。2004年のファームの試合において、2試合連続のサヨナラ打を記録し、注目を集めている。
 2005年は、オープン戦において、初めて一軍の試合に出場した。しかし3打数無安打と結果を出すことが出来なかった。イースタン・リーグでは打率.287、2本塁打、6盗塁を記録している。
 2006年、二軍で打率.286、6本塁打、7盗塁の好成績を記録した。一軍の公式戦出場はならなかったが、徐々に信頼度は高まっており、一軍の練習に呼ばれる機会も増えている。
 2007年、結局この年も一軍出場はなかった。しかし二軍ではイースタン・リーグ最多の95試合に出場し、96安打で同リーグ最多安打を獲得した。打率.279、自己最多の9本塁打、10盗塁、51打点(同リーグ2位)の成績を残し、主力打者として活躍した。真面目な性格と練習熱心さから、目立った実績は無いにも関わらず、二軍首脳陣から大成を期待する旨をコメントされている。
 2008年は開幕を二軍で迎えたものの好調をキープし、6月22日に宮出隆自の抹消に伴って、自身初の一軍登録を受けた。翌6月23日、対オリックス戦7回1死満塁の場面で、代打で10年目にしてついに一軍初出場を果たした。チャンスでの登場だったが、惜しくも空振り三振に倒れた。その後7月1日の対巨人戦にも代打で出場したが、結果を出すことが出来ず7月3日に登録を抹消された。イースタン・リーグではその後も前年同様主軸として活躍したが、リーグ最多の12併殺を記録するなど、再登録にはいたらなかった。
 2009年、10月1日に戦力外通告を受け、現役を引退。真面目な性格を日本ハムに買われ、球団職員に転身。
 2010年からは、日本ハムのベースボールアカデミーの講師となる。
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%89%A7%E8%B0%B7%E5%AE%87%E4%BD%90%E7%BE%8
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 本別特産の黒豆加工品ブランド「キレイマメ」に、金時や小豆など“赤豆”を素材にした 「レッドシリーズ」が登場 し、十勝豆工房岡女堂本家(星昌弘店長・共栄18)で販売が始まりました。b0171771_8451022.jpg
 発売されたのは「金時ツユ甘納豆」「小豆ツユ甘納豆」(各200円、53g入り)の2商品。
 「キレイマメ」の地元販売戦略組織「十勝本別キレイマメの会」(事務局・町企画振興課)が「黒豆以外の豆でも特産加工品を」と、2008年度から商品開発を進めてきました。
 (写真:十勝豆工房岡女堂本家)
 本別町観光物産センター、岡女堂本家釧路MOO店でも近く販売する計画です。
 レッドシリーズの商品化に併せ、“本家”の黒豆加工品の新商品「黒豆しぼり甘納豆」(158円、35g)も発売しました。金時や小豆をフリーズドライした豆菓子も近日中に商品化の予定です。

《参考:岡女堂の歴史》
 安政二年に、初代がぜんざいの鍋を焦がした事から、「甘納豆」は誕生したと言われています。
甘納豆とともに歩んだ長い歴史と美味しい豆への思いは今も私たちに受け継がれています。
岡女堂 沿革史
1855年(安政2年) 創業者 大谷彦平、京都 本能寺の門前にて、ぜんざい屋を営むぜんざいを火に掛けすぎ偶然に甘納豆を発見
      大徳寺納豆より甘納豆と名を付ける
      屋号を「岡女堂」とする
1895年(明治27年) 第4回国勧業博覧会の京都開催時に甘納豆を出品
      宮内省御用品となる
      一大(ぼうだい)菓子組合の一員となる
1988年(昭和63年) 本別町に実験工房(現事務所)をオープン
1990年(平成2年) パッケージ作業所、焙煎工場、豆ドームをオープン
1991年(平成3年) 甘納豆工場をオープン
1992年(平成4年) 豆男爵の館(現売店)とガーデンをオープン
1993年(平成5年) 名古屋総本家 岡女堂を引き継ぐ
1995年(平成7年) ふるさと銀河線の開通に伴い、岡女堂駅をオープン 豆神社を遷宮
2006年(平成18年) 鶴雅グループが経営を引き継ぐ
2009年(平成21年) 国道からの入り口「北の玄関」をオープン
《岡女堂公式ホームページから》
http://www.okamedou.com/about/history.html
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 6月4日(金)、帯広市や帯広商工会議所などでつくる「とかち帯広空港利用促進協議会」(会長・米沢則寿市長)は、帯広市役所で総会を開き、昨年廃止された関西線の復活を目指す取り組みを本年度事業計画に盛り込みました。
 日本航空が10月末での撤退方針を示している名古屋線の存続に向けた活動と併せ、関西線も地域経済にとって重要路線との位置付けを明確にしました。日航に限定せず航空会社への就航要請、関西圏で十勝の物産を売り込むキャンペーンなどを展開する予定です。
 関西線は日本エアシステムが1992年に就航。合併で日航が引き継ぎました。2001年度には最多の7万7千人が利用しましたが、2005年から夏だけの季節運航となり、2009年8月末で廃止されました。
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