2015年 12月 05日 ( 1 )

b0171771_21064895.jpg
参考写真:松浦武四郎
(首から下げているのは,武四郎がコレクションしていた古物で自作したもの。)
出典:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BE%E6%B5%A6%E6%AD%A6%E5%9B%9B%E9%83%8E


 12月5日,特別展 松浦武四郎展~十勝毎日新聞社グループコレクションから が,帯広百年記念館で開幕します。
 会場の同館特別展示室では4日,関係者が展示作業など最後の準備に追われました。
 「北海道の名付け親」として知られる松浦武四郎(1818~88年)の初めての北海道探査から,170年を迎えたのを記念して開かれます。
 現在の三重県松阪市で生まれた武四郎は,71年の生涯の中で6度にわたる北海道(蝦夷地)調査を行い,数々の地図や書籍,絵画などを残しました。


参考:帯広百年記念館ホームページ
http://www.octv.ne.jp/~hyakunen/

b0171771_21053485.jpg
帯広百年記念館=2015年8月撮影


 十勝毎日新聞が, 「松浦武四郎展あす開幕 会場は準備着々」 と伝えています。


 特別展「松浦武四郎展~十勝毎日新聞社グループコレクションから」(十勝毎日新聞社,NPO十勝文化会議主催,帯広市教委共催)が5日,帯広百年記念館(帯広市緑ケ丘2)で開幕する。会場の同館特別展示室では4日,関係者が展示作業など最後の準備に追われた。
 「北海道の名付け親」として知られる松浦武四郎(1818~88年)の初めての北海道探査から,170年を迎えたのを記念して開く。現在の三重県松阪市で生まれた武四郎は,71年の生涯の中で6度にわたる北海道(蝦夷地)調査を行い,数々の地図や書籍,絵画などを残した。

 展示するのは,内陸の様子を詳細に伝え,現代の行政区域の基礎となった「北海道国郡検討図」(縦2・4メートル,横3・6メートル)や,十勝を含む当時の北海道の様子を伝える日誌,書画など約50点。蝦夷地の姿を伝えることに情熱を注ぎ,アイヌの生活・文化にも深い理解を示した武四郎の足跡をたどる。

   -略-
 会期は23日まで。(関根弘貴)


以上引用:十勝毎日新聞社ニュース電子版/2015年12月04日11時27分の記事


参考:松浦 武四郎

 松浦 武四郎(まつうら たけしろう,文化15年2月6日(1818年3月12日) - 明治21年(1888年)2月10日)は,江戸時代末期(幕末)から明治にかけての探検家,浮世絵師,好古家。名前の表記は竹四郎とも。諱は弘。雅号は北海道人(ほっかいどうじん),多気志楼など多数。蝦夷地を探査し,北海道という名前を考案した。


生涯[編集]

 文化15年(1818年),伊勢国一志郡須川村(現在の三重県松阪市小野江町)にて郷士・松浦桂介ととく子の四男として生まれる。松浦家は,肥前国平戸の松浦氏の一族で中世に伊勢国へ来たといわれている。別書では,代々百姓で,父・桂祐の次男として生まれたとしている。父親は庄屋を営んでおり,比較的恵まれた中,文化的な素養を身に付けたとされる。13歳から3年間,平松楽斎(漢学者・伊勢津藩士)のもとで学び,猪飼敬所,梁川星巌らと知己を得る。
 山本亡羊に本草学を学び,16歳から諸国をめぐった。天保9年(1838年)に平戸で僧となり文桂と名乗るが,故郷を離れている間に親兄弟が亡くなり天涯孤独になったのを契機に,弘化元年(1844年)に還俗して蝦夷地探検に出発する。1846年には樺太詰となった松前藩医・西川春庵の下僕として同行し,その探査は択捉島や樺太にまで及んだ。蝦夷では詩人の頼三樹三郎と旅することもあった。安政2年(1855年)に蝦夷御用御雇に抜擢され再び蝦夷地を踏査,「東西蝦夷山川地理取調図」を出版した。明治2年(1869年)には開拓判官となり,蝦夷地に「北海道」の名を与えたほかアイヌ語の地名をもとに国名・郡名を選定した。翌明治3年(1870年)に開拓使を批判して職を辞し,従五位の官位も返上した。この間,北海道へは6度赴き,150冊の調査記録書を遺した。-略-
出典:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BE%E6%B5%A6%E6%AD%A6%E5%9B%9B%E9%83%8E


[PR]