2015年 09月 14日 ( 1 )

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音更町図書館=2012年月6撮影

 9月5日,音更町図書館は,「草森紳一蔵書整理プロジェクト記念講座 草森紳一~文章作法をめぐって~」を開きました。
 帯広大谷短期大学の田中厚一学長が,音更町出身の著述家草森紳一氏(1938~2008年)について講演しました。
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帯広大谷短期大学=2015年8月撮影

 十勝毎日新聞が, 「田中厚一学長が講演 草森紳一蔵書整理講座,音更」 と伝えています。

 【音更】町図書館は5日,「草森紳一蔵書整理プロジェクト記念講座 草森紳一~文章作法をめぐって~」を開いた。帯広大谷短大の田中厚一学長が町出身の著述家草森紳一氏(1938~2008年)について語った。

 初めに田中学長は,草森氏が残した3万2000冊の蔵書を「お宝」とした上で,音更町が受け入れ,2010年11月に同短大に草森紳一記念資料室を開設された経緯を説明。「読書の楽しさ,読むことの意味を考えてもらうためにも,特に若い世代にこの『お宝』をどう公開していくかが今後の課題」とした。

 また草森氏の文書作法について「『読んで』『書いて』の作業を繰り返していたように思う。その結果,文が長くなったのではないか」と話した。

 草森氏と蔵書の関わりについては「本は自分の思考を引き出すための『ツール』だったのではないか」と説明し,来場した40人は「博覧強記」「知の巨人」と称される草森氏に思いを寄せながら聞き入った。

   -略-
(長瀬聡美通信員)


以上引用:十勝毎日新聞社ニュース電子版/2015年09月07日18時30分の記事


参考:草森 紳一

 草森 紳一(くさもり しんいち,1938年2月23日 - 2008年3月20日)は,日本の評論家

来歴[編集]
 北海道河東郡音更村(現・音更町)生まれ。北海道帯広柏葉高等学校を経て,1浪後慶應義塾大学文学部に入学して中国文学科に進む。大学時代は奥野信太郎や村松暎に師事。また慶應義塾大学推理小説同好会に参加,このときの先輩に紀田順一郎や田波靖男がいる。映画監督を志望し,1960年に東映の入社試験を受けたが面接で失敗。1961年,大学卒業後は婦人画報社(現ハースト婦人画報社)に入社し,『男の服飾』を『MEN'S CLUB』に改名する発案をする[1]。編集室にあった『ELLE』『Mademoiselle』『PLAYBOY』『COSMOPOLITAN』『GQ』等に刺激を受ける[1]。『婦人画報』編集部に移り伊丹十三の『ヨーロッパ退屈日記』などを担当。真鍋博の推薦で『美術手帖』にマンガ評論を書き始める[1]。1964年に退社し,慶應義塾大学斯道文庫勤務や慶應義塾大学文学部非常勤講師などを経て評論家となる。1973年『江戸のデザイン』で毎日出版文化賞受賞。マンガ,広告,写真など当時,文化の周縁とみなされていたジャンルを論じる著作が多い。


 莫大な数の蔵書を保有していたことで知られる。30歳前後から,いわゆる「資料もの」といわれる仕事をするようになって,本がねずみ算式に増殖したとは本人の弁。「ひとたび『歴史』という虚構の大海に棹を入れると,収入の七割がたは,本代に消える。異常に過ぎる。いっこうに古本屋の借金は,減らない」と,自著『随筆:本が崩れる』に記している。

 当面仕事で使う可能性の少ない三万冊は生前,北海道の実家に建てた高さ九メートルの白い書庫「任梟盧」(にんきょうろ,李賀の詩による[2])に移した[3]。終の棲家となった東京都江東区門前仲町のマンションの蔵書は,月に少なくとも百五十冊は買うから一年で二千冊,この部屋に越して二十年経つのでたぶん四万冊は下らないというのが草森の計算(実際は約三万二千冊)。部屋をさがすにあたっての必要条件は,壁面確保のため,窓が少ないことだった。「本の隙間にボクは住まわせてもらっているんだ」と語っていたという[4]。心不全により満70歳で死去後,その蔵書は音更町の帯広大谷短期大学に寄贈され,そのうち約二千冊を展示する「草森紳一記念資料室」が同短大にオープンした。展示される以外の蔵書は,音更町の廃校となった小学校に保管され,ボランティアによって整理が進められている[2]。
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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