2011年 10月 25日 ( 1 )

 10月22日(土)、帯広市図書館西側の庭園内にある 依田勉三に縁の保存樹木が「治療」 を受けました。枝や幹で腐食が深刻な状態になっており、木を傷めないよう細心の注意を払いながら、幹や枝の腐れを取り除く「外科手術」で延命を図る計画です。

 十勝毎日新聞が、 「依田勉三宅に植栽のマユミの老木を治療」 と伝えています。
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 帯広開拓の祖・依田勉三(1853〜1925年)に縁がある帯広市の保存樹木で、市図書館西側の庭園内にあるマユミの老木が22日、北海道造園緑化建設業協会十勝支部(杉田吉弘支部長)の庭師らの手によって「治療」を受けた。枝や幹で腐食が深刻な状態になっており「外科手術」で延命を図る。

 このマユミは、市の保存樹木10本のうちの1本で、樹齢は推定85年。1927年ごろ、勉三の旧自宅(帯広市西2南10)に植栽されたと伝えられている。68年の旧図書館の開館に合わせて市民から寄贈され、新図書館がオープンした2006年、現在地に移植された。

 今夏、同支部による診察で、幹や枝の深刻な腐れが見つかった。主要な枝が大きく外側に張り出した複雑な樹形をしている上、枝と幹の内部の大部分がスポンジ状になっているところもあった。

 同支部では、「由緒ある木を後世のために守ろう」(杉田支部長)と社会貢献活動の一環で治療を買って出た。小雨が降る中、庭師らは幹や枝の腐食した部分をのみや剪定(せんてい)ばさみなどで削り落とし、殺菌剤や人工樹皮を塗った。枝の一部は、健康な部分が樹皮から5センチほどしかなく、木を傷めないよう細心の注意を払い作業を進めた。

 同支部では後日、根が水分を吸い上げやすくするための土壌改良や、越冬のための雪づりなども施術する予定。杉田支部長は「老木が良い状態で生き続け、いつまでも市民に愛されてほしい」と目を細めていた。
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以上引用:十勝毎日新聞社ニュース2011年10月24日の記事
http://www.tokachi.co.jp/news/201110/20111024-0010770.php

参考:依田勉三
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BE%9D%E7%94%B0%E5%8B%89%E4%B8%89
 依田 勉三(よだ べんぞう、嘉永6年5月15日(1853年6月21日) - 大正14年(1925年)12月12日)は日本の北海道開拓者。北海道開墾を目的として結成された「晩成社」を率い帯広市を開拓した。開墾に関わる業績から緑綬褒章を受章している。北海道神宮開拓神社の祭神。

帯広の開拓 [編集]
明治16年(1883年)帯広に入った一行をまず鹿猟の野火が襲い、次にイナゴの大群が襲った。食糧としてアワを蒔き付けするも天候の不順やウサギ・ネズミ・鳥の被害に遭い殆ど収穫できなかった。

明治17年(1884年)もまた、天候が優れず開墾は遅々として進まず、開拓団の間に絶望が広まっていた。勉三は米一年分を大津(現在の豊頃町)に貯蔵したが帯広への輸送が困難な状況であった。食糧不足を打開するため、当縁郡当縁村生花苗(おいかまない、現在の広尾郡大樹町)に主畜農業を経営する。

明治18年(1885年)には農馬を導入し羊・豚を飼育しハム製造を目指した。馬鈴薯澱粉を研究し、農耕の機械化を試みるが何れも上手く行かず、当初の移民は3戸にまで減少した。

明治25年(1892年)頃には状況が漸く好転し食糧は足り、小豆・大豆の収穫も目処がつくようになった。

当初晩成社の設立に当たっては15年で1万町歩の土地を開墾しようとの目標を掲げていたが、目標には遠く及ばず30町歩を開墾するのに10年を要す有様であった。

明治25年(1892年)11月の佐二平・勉三兄弟の叙勲から奮起し晩成社の事業を拡大した。会社組織を合資会社とし社名を晩成合資会社と改める。函館に牛肉店を開業し当別村に畜産会社を作る。帯広には木工場を作り然別村(現在の音更町)に牧場を開いた。

明治30年(1897年)に社有地の一部を宅地として開放すると多くの移民が殺到した。

明治35年(1902年)にはバター工場を創業。他にも缶詰工場・練乳工場等もあった。勉三と晩成社が手掛けた事業は何れも現在の十勝・帯広に根付く産業となったが当時晩成社の経営は上手く行かなかった。

大正5年(1916年)に売買(うりかり、今の帯広市南東部)等の農場を売却する事によって晩成社の活動は事実上休止する。

大正14年(1925年)には勉三が中風症に倒れ、9月には勉三の看病をしていた妻が亡くなり、12月12日勉三は帯広町西2条9丁目の自宅で息を引き取った。享年73。勉三の死後昭和7年(1932年)に晩成合資会社は解散し、翌年の昭和8年(1933年)帯広は北海道で7番目に市制を施行した。勉三は、その死の間際「晩成社には何も残らん。しかし、十勝野には…」と述懐したという。

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写真:アイヌの民族衣装を着た依田勉三
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:Benzo_Yoda_wearing_Ainu_Dress.JPG
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