2009年 11月 26日 ( 1 )

 「義経山」を再び観光名所に と、野田仁氏が会長を務める本別町観光協会は、現地調査を行いました。
 2003年(平成15年)の十勝沖地震により、義経山一帯では、岩や洞穴が部分的に崩れたり、その後の大雨により登山道が消失する事態に至っていました。
 私(ブログ作成者)は、小学生の頃、毎年のように、遠足で現在の「義経の里本別公園」である「夏川公園」に出かけ、途中で「弁慶洞」を覗いたり、先生から「あれが、義経山ですよ」と説明されたりしたことが思い出されます。当時、義経山と弁慶洞は、夏川公園に隣接し、本別唯一の観光スポットでした。
 今回は、野田会長ら理事のほか、高橋町長、砂原副町長、澤田教育長、義経山に詳しい町民有志や町歴史民俗資料館スタッフら約20人が参加して、大沼地先から平(たいらの)広場までの約2kmを歩き、登山道や観光資源の所在・現状を確認しました。その結果、部分的な崩落や落石も確認されました。しかし、登山道や展望施設からの眺望も良く、観光資源としての価値は充分との見解を出すに至りました。

《参考:「義経伝説不死伝説 」》
 後世の人々の判官贔屓の心情は、義経は衣川で死んでおらず、奥州からさらに北に逃げたのだという不死伝説を生み出した。このような伝説、あるいは伝説に基づいて史実の義経は北方に逃れたとする主張を、源義経北行説と呼んでいる。この伝説に基づいて、寛政11年(1799年)、蝦夷の日高ピラトリ(現 北海道平取町)に義経神社が創建された。b0171771_048296.jpg
 義経の戦術は奇襲攻撃が多く、アイヌの人々の狩りのやり方によく似ていた。(中略)
 このような説話が、のちに語り手たちの蝦夷地(北海道)のアイヌに対する知識が深まるにつれて、衣川で難を逃れた義経が蝦夷地に渡ってアイヌの王となった、という伝説に転化したと考えられる。またアイヌの人文神であるオキクルミは義経、従者のサマイクルは弁慶であるとして、アイヌの同化政策にも利用された。またシャクシャインは義経の後裔であるとする(荒唐無稽の)説もあった。
 これに基づき、北海道の本別町では義経山や、弁慶洞と呼ばれる義経や弁慶らが一冬を過ごしたとされる洞窟が存在する。現在では土砂崩れなどの危険もあり、弁慶洞については直接進入するのは難しいため、地上から見上げる形で観察することが出来る。

《参考:義経=ジンギスカン説》
 この北行伝説の延長として幕末以降の近代に登場したのが、義経が蝦夷地から海を越えて大陸へ渡り、成吉思汗(ジンギスカン)になったとする「義経=ジンギスカン説」である。
(以上 出典:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』)
写真:本別公園に立つ源義経像
地図 赤☆印…義経山  青☆印…弁慶洞

[PR]