帯広の森で、戦闘機格納庫「掩体壕」を公開

 「帯広の森」で、旧日本陸軍の戦闘機格納庫として建設された 「掩体壕(えんたいごう)」が公開 されています。
 「帯広の森」付近に、1937年に 旧陸軍帯広第一飛行場(緑ヶ丘飛行場) が建設されました。飛行場は現在は、陸上自衛隊十勝飛行場として使用されています。
 当時は、航空機を敵の攻撃から守るため、格納庫として多くの掩体壕も建設され、現在も数多くの壕が残っています。

 十勝毎日新聞が、 「戦闘機格納庫『掩体壕』を公開」 と伝えています。
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 帯広市は「帯広の森」に残る旧日本軍の戦闘機格納庫「掩体壕(えんたいごう)」1基を公開している。陸上自衛隊十勝飛行場(旧帯広第一飛行場)周辺に点在していたとされる小型の掩体壕46基のうちの1基とみられる。帯広の森造成以前に掩体壕のある土地で農業を営んでいた元帯広市職員の服部史郎さん(82)=同市大空町=は「当時の建造物を通して、命懸けだった戦時中の悲惨さを感じてほしい」と話している。

 掩体壕は帯広の森・はぐくーむから遊歩道を北に歩くと左手にある。市の調査によると、上から見ると凸形で、高さ2メートル、長さ31.5メートルのコンクリートの壁で囲まれている。敵の攻撃から飛行機を守るため、凸形の長辺部分から出入りしていたという。

 服部さんは函館市出身。出征した農家の人手不足を補う「学徒援農」で、1944年に旧川西村と清水町を訪れたことがあった。その縁で46年に同飛行場周辺の土地払い下げで約5ヘクタールを手に入れ、74年に帯広の森造成のため市に引き渡すまで、掩体壕周辺で豆類を栽培していた。

 入植後1年間は掩体壕に木材で屋根などを取り付けて住み、隣に住居を建てた後も、掩体壕は倉庫として利用し続けて取り壊さなかった。

 服部さんは戦時中、飛行兵を養成する海軍飛行予科練習生として訓練を受けていた。竹で敵を欺くため偽の掩体壕を作った経験があり、コンクリートの壁や形を見て、掩体壕とすぐに分かったという。当時は屋根の跡と思われる鉄骨があったほか、「中央部に車輪が通った跡があり、実際に飛行機が格納されていたと思う」と服部さん。

 市は昨年9月に現地調査で掩体壕の存在を確認。戦争遺産として市民に見てもらおうと、遊歩道沿いに看板を設置、周囲の草を刈って整備し、7月22日から公開している。
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以上引用:十勝毎日新聞社ニュース2011年08月13日の記事
http://www.tokachi.co.jp/news/201108/20110813-0010076.php

参考:掩体壕(えんたいごう)b0171771_565655.jpg
 掩体壕は、航空機を敵の攻撃から守るための格納庫。掩体、掩蔽壕、掩壕とも言う。 通常は、コンクリート製でかまぼこ型をしており、内部に航空機を収納する。簡易なものは爆風・破片除けの土堤のみであり、天井がないものもある。なお英語ではBunker(バンカー)と呼ばれ、名称上は武装拠点であるトーチカと区別されていない。陸上自衛隊では「掩体」、航空自衛隊ではこれを行政上は「えん体」、運用上は「シェルター」と呼称する。

日本における戦争遺跡としての事例 [編集]
 旧日本軍が第二次世界大戦中に構築した掩体壕が一部に残されている。これは、コンクリート製の大型構造物であり、取壊しが困難であったために、残されたものである。近年では戦争遺跡として保存措置が講じられているものもある。(略)
出典:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%8E%A9%E4%BD%93%E5%A3%95

写真:米子空港近くの掩体壕
出典:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:Bunker_near_Miho_Airport.jpg
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by hombetu | 2011-08-14 05:07 | 帯広市の様子 | Comments(0)