本別高の蓑口先生、「ノモンハン事件」取材を報告

 9月11日(土)、本別高校教諭の蓑口一哲先生が、かつてのノモンハン事件の戦場跡を取材した報告会をしました。b0171771_133523.jpg
 蓑口先生は、今年の8月5日~15日の間、モンゴルを取材しました。北海道出身者が多く犠牲になったノモンハン事件をテーマに設定し、本別町朝日町高野山真言宗・密厳寺僧侶の福家督和さん、足寄町出身で立命館大3年の古田裕之さんの2人とともに、モンゴルのハルハ川一帯を取材訪問しました。
 激戦地となったノロ高地に残る、日本兵が造ったとみられる塹壕(ざんごう)跡を、スライド写真で示したり、遺留品を回収した様子などを語りました。
 会場の「道の駅ステラ★ほんべつ」(写真)には、町民ら約20人が参加し、熱心に報告を聞きました。

《参考:ノモンハン事件》
ノモンハン事件(のもんはんじけん)は、1939年5月から同年9月にかけて、満州国とモンゴル人民共和国の間の国境線をめぐって発生した日ソ両軍の国境紛争事件。
概要
満州国軍とモンゴル人民共和国軍の参加もあったが、実質的には両国の後ろ盾となった大日本帝国陸軍とソビエト労農赤軍の主力の衝突が勝敗の帰趨を決した。当時の大日本帝国とソビエト連邦の公式的見方では、この衝突は一国境紛争に過ぎないというものであったが、モンゴル国のみは、人民共和国時代よりこの衝突を「戦争」と称している。以上の認識の相違を反映し、この戦争について、日本および満洲国は「ノモンハン事件」、ソ連は「ハルハ河の事件、出来事 (ロシア語: Бои на Халхин-Голе)」と呼び、モンゴル人民共和国及び中国は「ハルハ河(ハルヒン・ゴル 中国語: 哈拉哈河)戦争(または戦役)」と称している。b0171771_1421681.jpg

この衝突に対して日本・満洲側が冠しているノモンハン(モンゴル語では「ノムンハン」。「法の王」の意。)という名称は、清朝が雍正十二年(1734年)に外蒙古(イルデン・ジャサク旗・エルヘムセグ・ジャサク旗)と、内蒙古(新バルガ旗)との境界上に設置したオボーの一つ「ノモンハン・ブルド・オボー」に由来する。このオボーは現在もモンゴル国のドルノド・アイマクと中国内モンゴル自治区北部のフルンブイル市との境界上に現存し、大興安嶺の西側モンゴル高原、フルンブイル市の中心都部ハイラル区の南方、ハルハ河東方にある。

いっぽうソ連・モンゴル側が冠している「ハルハ河」とは、戦場の中央部を流れる河川の名称である。綴りはモンゴル式では「Халхын гол」、ロシア式では「Халкин-Гол」ないし「Халхин-Гол」となる。

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
最終更新 2010年7月2日 (金) 15:04 (UTC)。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8E%E3%83%A2%E3%83%B3%E3%83%8F%E3%83%B3%E4%BA%8B%E4%BB%B6

《写真:ノモンハン 上 ( 作:五味川 純平/文春文庫 )》
[PR]
by hombetu | 2010-09-22 13:29 | 本別町の様子 | Comments(0)